2024年の振り返り
年末ってことで振り返ってみる。滑り込み。
仕事
仕事は去年と変わらず、リーガルテックの会社でSaaSのプロダクトマネジメントをしている。だいぶSaaSってものの解像度は上がってきたし、面白みも発見出来てきた。SaaSは世の中に先人の知恵がゴロゴロあるのがありがたいし、コンパウンド然りBPaaS然り、次世代への移行の渦中にあるというのがかなり面白い。
その辺の面白さはリーガルテックにもあって、ポイントソリューションからコンパウンドへの流れのような、骨太な変化が起こっている最中でもある。とりわけCLMプラットフォームサービスが日本国内でも複数正式リリースされた年という意味で、2024年はCLM元年と言っても差し支えないと思うし、その動きは確実にSaaSのトレンドともリンクしている。みたいな感じで、仕事は自分なりに興味ポイントを見つけられたような気がする。よかったよかった。
生活
生活では子供が無事に産まれたってのが最大の変化。また30代も半ばに差し掛かったこともあり、今後の中長期の人生の過ごし方への興味が強くなった年だった。自分の時間の使い方を振り返ってみては、「なんか違和感があるな」と感じていた。
2025年に向けて
いろいろ考えてみた結果、要するに「キャパの余力を安易に仕事で埋めてしまう、短期目線での生き方から変わることを求め始めた」ってことなのかなと思っている。自分はキャパに余力がある状態を無意識に恐れていて、その状態になると仕事を増やす癖がある。それはそれで、知的好奇心を効率よく満たせるという意味では間違いではない。けど常に余力がなく、人生に対する中長期的投資時間を割きづらくなる。
仕事は手っ取り早くキャパを埋められて、知的好奇心を満たしやすいものであるけど、仕事をした時に得られるものといったら、短期的というか、刹那的な達成感が多いように思う。今後歳を重ねて人生から仕事が取り上げられた際、そのときに残るものはそんなに多くないんじゃないかと思っており、そこに自分は恐れを抱き始めた。だからこそ、余力を仕事で埋めるのではなく、もっと自身の人生を中長期で豊かにするようなことに時間を投資できるようになりたいと思い始めた。それは例えば仕事に関係ない、ピュアに自身の興味が向く事象について考えることかもしれないし、子供や家族とのコミュニケーションかもしれないし、友人との親睦を深めるための時間かもしれない。いずれにせよ、仕事と人生を分離せずに、中長期で人生の充実度を最大化させるための時間の使い方を身につけていきたいと思ってきている。
また自分の根本である「知的好奇心」を満たし続けることも大事にしたい。世の中の仕組みとか原理原則とか、色々な事象が発生する背景とか、それらの事象に対する多角的な考え方・捉え方にも興味がある。それらを知り、内面化・身体化していくそのプロセスと、その結果としての自身の継続的な変化に興味がある。なんならそれが仕事をする目的の一つにもなってきている。お金に対する考え方も、収入が増えるに越したことはないけど、興味のない仕事をして年収が倍になることよりも、今の水準で興味のあることをし続けられる方を迷わず選ぶ、くらいの感覚になってきた。そう考えていくと仕事においては、経験済みの物事の再現性にこだわるよりも、未経験の物事に挑戦することの方に時間を割きたい。「やったことないことをどれだけ経験できたか」が大事だなーと思う。
ということで
そんなわけで、2025年は中長期的な目線をもった時間の使い方に慣れることを一つのテーマに据えつつ、知的好奇心に素直に生きていきたい。むずそー。
生後二ヶ月くらい経った
もうちょいで子供が産まれてから二ヶ月。振り返ってみると、少しずつペースを掴めてきた気がする。初月はペースもクソもなかったけど、今は赤子もペースが少し出来てきて、おかげでこちらもペースをつくれてきた。
なにって、夜ある程度はまとまって寝てくれるのがありがたい。3〜4時間おきにミルクが必要ではあるものの、19〜7時くらいまでは寝てくれている。ありがたい。そしてこっちはこっちで色々な作業に慣れてきた。ミルクを作って飲ませたり、オムツを変えたり。そんなわけで、だいぶペースを掴めてきた。
とはいえまだ日中は疲れて、赤子の顔見てたら何もせずに数時間経ってたわーみたいなこともある。ミルクあげてから寝かしつけるまでに1時間くらいはかかる。意外と時間がない。なんか、あるはずなのにない。
最近は22時に寝て5時に起きる。ミルクあげたりしてたらあっという間に7時。ちょっと一息ついたら9時。で、妻が起きる。着替えて朝飯食って散歩して戻ったら11時。昼飯作って食ったら13時。ダラダラしてたら17時。そこからは沐浴→授乳→晩飯→寝かしつけ、で19時。風呂入ってちょっとダラダラしてたら22時。で、寝る。
時間はなくはないけど、細切れなんだなってのが分かってきた。一応、その細切れの時間に走ってみたりDuolingoしてみたり本を読んでみたりRSS消化してみたり映画みてみたはするものの、やっぱこう、「今日はこれやったなー!」ってのがない日が多い。
けどまあ全体で見たら楽しく幸せに過ごせてる思う。ちゃんと子供かわいいなって思えてるし。自分のおならにビックリして起きて泣くのは理不尽だなぁと思うけど。
そして思った以上に仕事に対する焦りとかもない。仕事、割と好きな自己認識だったからこの点は意外だった。人生の幸福度を定めるパラメータに「仕事」以外のものが増えたってのは非常に喜ばしい。空いた時間を仕事で埋めるって、かなり短期視点というかP/L的だなーと思うし、そうした近視眼的な捉え方に偏りがちって微妙だよなーと感じ始めてはいたけど、アクションは取れていなかった。なので、今回の育休がその思考の癖のバランスを整えるきっかけの一つになりそうで、思わぬ副産物を得たなーと思っている。
あと一ヶ月で復帰予定。ほんとあっという間だなーと思う。今の状態で仕事復帰するってことへの楽しみな気持ちもあるけど(どんな感じになるんだろうなーという興味)、子供と接する時間が減ることへの寂しさも大きい。健康に育ってほしいし、いい感じに仕事と両立できたらいいなー。がんばろ。
人間性についての雑記
育児をする中で感じた雑記。人間について(壮大)。なんか色々書いたけど、自分はこの分野の専門家じゃないしアカデミックなバックグラウンドがあるわけじゃないです。育児日記です。
問の立脚点
「人間は社会的動物である」とか「人間は自我や理性を持つ点が他の動物とは異なる」という言説がある。そうだよね〜と思う一方で、赤子をみていると100%本能で生きており、そこに自我も理性も社会性もない。とすると、目の前の赤子は人間ではないのか?いやいや人間でしょ。ってことで、人間を他の動物と分け隔てている要素、人間性について興味が湧いた。
人間性とは
人間性とは「自我や理性や社会性を持てるようになる、その発達可能性があること」、と言えるんじゃないかと整理した。(「自我、理性、社会性とは」と掘ることは可能だけど、一旦ここで止めておく。たぶん深めの沼だと思うし、自分には解ける気がしない。)
赤子には自我も理性も社会性もない。でも人間である(そう定義したい)。とするとつまり、「ある時点で自我・理性・社会性を持つこと」というよりは「それらを持つ"可能性があること"」が人間性の本質であるといえる。犬や猿が自我や理性や社会性を持った事例はおそらくないし、人間はそれらを持ってきた。そういう意味で、その可能性を持つのが人間である、と言えるんじゃないかと思う。
挑戦への欲求は本能なのかもしれない
そんな感じで人間性というものを定義すると、人間の存在意義や目指すものは「自我や理性や社会性の発達」と言えるんじゃないかと思う。逆にいうとその発達可能性の剥奪は、人間性の剥奪と同義になるんじゃないかと思う。なのでその発達可能性は死守しないといけない。
Canの中で生きていくことは一見ノーストレスにも見えるけど、人間性の観点から見るとストレスフルとも言える。つまりは自分が人間であるためには挑戦し続けないといけないし、人間である以上挑戦を求めるのは自然な行動原理なんだろうなと思った。
ときおり自分が得意なこと・現時点でできることの中で仕事をしていった方が変にストレスがなくて幸せなのかなと迷うときがあるんだけど、こうやって整理してみるとやっぱ断固NO!!だなって思った。人間をやるためには挑戦していかないと。だからこそ夢とか目標って大事だよなとも思う。オードリーでいう東京ドームみたいな目標、未だ見つけられずにいます(最後に思い出したようにオードリーの話を差し込んで終わる)。
子供が産まれた
先日子供が産まれた。第一子。せっかくなので今の気持ちを、産まれる前に遡りつつ整理しておこうと思う。今回はオードリーは出てこないし、マジの日記。
生まれる前
妻の妊娠が分かっても親になる実感なんてものは湧いてこなかった。それは社会人になるとき、転職をするとき、結婚をするときも同じで、今回も「まあそんなもんだよな」と思ったし、今も思っている。
自分はもともと事前準備を固めたいタイプの人間というか、見通しが立っていないことに対して不安を感じるタイプの人間なので、「何が必要になるのかなー」とか「何が大変なんだろうなー」とかを本、インターネット、友人・知人との対話によって解像度をあげていった。最初は漠然とした不安が大きかった。
でも、必要になるモノを準備していったり、情報をインプットしたりしていく中でだんだんと安心感が増していった。それに比例するように「楽しみ」という気持ちが増していった。生活のイメージが、少しずつだけど湧いていったのが大きかったんだと思う。
不安ドリブンで動き始めたものではあったけど、その結果安心を得られただけでなく、楽しみという気持ちも得られたことは大きかった。自信になった。
そんなこんなで出産予定日が近づいていくと、もう一度漠然とした不安が生まれてきた。そのときの日記を見ると「生活が変わることが恐い」「命を扱うことが恐い」「愛情が永続するのかが不安」などなど、いろいろな不安があったことが分かる。
でもそのときそういった不安を言語化することで、その不安を自分の素直な気持ちとして取り扱うことが、多少なりともできるようになった。そしてそういった不安は、存在するにはするが「ただそこにあるもの」として、ある意味客観的に認識できるようになった。
ペットとしてハムスターを飼っていたことも大きい。規模は違えど命を預かるかたちで生活は変わっても、ちゃんと育てられた。愛情も続いた。だから大丈夫だと、気持ちの整理をつけられた。
飼い始めた当初は当然そんな狙いを持っていたわけではない。でも結果的に、自分にとって「ペットを飼っていた」という経験が大きなものだったんだなと自覚した。そんなわけで、ハムスターにはめちゃくちゃ感謝している。
そしてその不安な気持ちを、そのまま妻と対話できたことも大きい。書き出して言語化することもそうだけど、対話によってさらに整理が進み、状況を客観視できるようになるってのは仕事と一緒だよなと思う。こうして「事象を客観視できるようになる」っていうのは間違いなく、大人になって良かったことの一つ。
で、産まれた
母子ともに健康だった(父も健康)。マジで安心した。自分は基本的に最悪なケースを想定しながら生きるタイプで、今回もそうだった。そうだったっていうか、そこもだいぶ不安だったんだなと、後から認識したというのが正確かも。
「感動して泣いたりするんかなー」と思っていたけど、帝王切開だったってのもあって、思っていたよりは事務的に時が流れていった。感情に波が立つ隙間がなかったというか。だいたいこういうときって、帰って一人になってから実感が湧いてきて、そこで一人感動して…的なパターンもある気がするんだけど、それもなかった。割と「無」だった。これはこれで正直ちょっと寂しさはあったけど、「まあ自分ってそんな感じの人間ではあるか」とも思った。変に能動的に感動しに行くのとかキモいなーみたいに思ってしまうというか。
そんなわけで、まだ自分の子供を見ても全然「我が子」感は正直ないし、なんならすげ替えられても気づかない可能性すらある気がする。父親になった実感も全然ない。でもたしかに「子供ってかわいいんかもなー」とは感じるし、「大切にしたいなー」とも思っている。
今後いろいろな苦労をする中で、徐々に愛着が形成されていく感じだろうなと予想している。やっぱ苦労してそれを乗り越えた経験と、その積み重ねがないと人間関係ってのは前に進まないと思うし。自分の思考の歪みがあるかもしれないけど。でも少なくともこれまで自分が作れた強固な関係性ってのはそうして形成されてきた(仕事からできた仲間は特にそう)。
苦労している最中はやっぱしんどいし心が張り詰めるしなんなら折れそうにすらなるけど、そこで諦めずに踏ん張ることで、上手く噛み合ったときに関係性が一つ強くなる。そういう経験を重ねることを大事にしたいなーと思う。だからこそ、しんどいときにそのしんどさから目を背けずに、真正面から立ち向かうってスタンスは大事にしたい。
というわけで
なんとなく今の気持ちを残しておこうと思ったので書いてみた。まだ父親0合目だけど、少なくとも「安心」「嬉しい」「楽しみ」みたいなポジティブな感情があることが、まずなにより良かった。し、これから起こるであろう苦労に対しても、なるべく前向きに捉えられるように気持ちをセットし直せたのも良かった。まあたぶんそのときになったら関係ないだろうけど。いずれにせよテキトーに、でも楽しく、本気で生きていきたい。
「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」へ行った
昨日、オードリーのラジオイベントのために東京ドームへ行った。本当に最高だった。めちゃくちゃ笑ったのはもちろん、めちゃくちゃ感動した。
余韻が抜けない
終わった日はもちろん、翌日になった今日も全然余韻が抜けない。ドームライブを観ていたときの感覚がずっと自分の中に残っている。
そしてその感覚を大事にしたいからこそだと思うんだけど、ドームライブの体験を他者と共有したくないという感覚にもなった。こんな日記書いといて矛盾も甚だしいんだけど。でも、自分が何を見て・何を感じて・何に心が揺さぶられたか。そもそもそれを言語化することが難しいんだけど、たとえそれが出来たとしても、自分はそれをやりたくない。芯の部分は誰にも見せたくない。自分の感動にそんなに安々と共感されてたまるか、という感覚。素晴らしい体験をしたあとっていうのは、そういう感覚になるんだなと思った。
写真を撮っておいてよかった
自分は普段、そんなに写真を撮る方ではない。体験したことを出来るだけ生の感覚で受け取りたいから。みたいな「それっぽい」ことも思うっちゃ思うけど、正直スマホ出してカメラ起動して写真撮るって行為がなんか恥ずかしいから(書いていて自分で思ったけどなんだよその理由。撮れよ)。そんな中でも昨日、数枚は写真を撮った。そして、本当に撮っておいて良かったなと思う。
ドームで体験したこと、そして今なお残るこの余韻を言葉で残しておくのは難しい。でも写真を眺めていると、それだけでドームにいたときの感覚を少し思い出せる。写真ってほんとすごいな。

安心感のある場だった
場の安心感も印象的だった。人の目を気にせずにライブを見て、笑えた。割と音楽ライブとかも人目を気にせずにいられるほうではあるんだけど、オードリーのドームライブは特にその感覚が強かった。
ほんとテキトーなことを書くけど、あの安心感は、お客さんとオードリーの間にかなり濃い文脈が共有されていたことが大きいんじゃないかと思う。ファン歴はそれぞれだけど、少なからずみんなオードリーが好きで、ラジオを聞いてドームに来た。毎週ラジオを聞くことで文脈が共有され、その結果ハイコンテクストの会話が可能になる。武道館ライブのとき、若林さんが「内輪ウケを本気でやりに来ました」と言っていたのが印象的だったけど、今回もまさに「本気の内輪ウケ」を地でいっていた(春日家の味玉事情なんてその最たる例で、ラジオ聞いてないと意味分からんし興味ない)。その「本気の内輪ウケ」で笑える・感動できるということが安心感に繋がる、みたいなことが起こっていたのかなあと思う。
最高だった、マジで
という感じで、感情が上下左右めちゃくちゃに揺さぶられた3時間半で、それだけに余韻が半端じゃなくて、本当に貴重な体験だったと思う。これだけ熱量を持って好きだと言えることがあるっていうのは、それだけで幸せなことなんだなとも思う。正直ドームに引きずられすぎて「これで明日からも頑張るゾ」って感じでは全然ないし、「俺もこんな体験を生み出したい!やるゾ!!!」って感じでもなくて、むしろまだ夢の中にいるような感覚だけど。でも確実に走馬灯のワンシーンは増えた。だからヨシってことにしよう。また数年後、お願いします☝️

『スーパースターを唄って。』と「生」について
『スーパースターを唄って。』という漫画がすごく良かった。ヤク中で親を亡くして借金返済のために売人をやっている青年 雪人が、ラップを始めるって話。良すぎてここ数日毎日読んでる。
「リアル」であることは自分の人生を生きるためにとても大事だと思う。空気を読んで他人に嫌われないように生きる。そうして自我を社会に飲み込まれることはほとんど死と同義だとさえ思う。そこに自我がない人生を「生」と呼んでいいはずがない。だから「リアル」であることは生きることなんだと思う。
『スーパースターを唄って。』という漫画からは「生」を強く感じられる。
絵柄こそポップだけど、話の中身はめちゃくちゃハードでずっとしんどい。雪人は日常的に上司に殴られるような状況にあっても感情が揺れず、だいたいヘラヘラしている。ここにはリアルな「自我」はなく、あるのは「社会」に向けたフェイクだけ。
だけどラップをやると決めて、トラックメイカーの友人から「嘘つくなよ」と言われてからリアルなリリックを書き、それをライブで唄う。そのライブでは確実に自我が開放されている。自我が開放されたその瞬間、それまでのフェイクへの「絶望」とリアルなライブでの「希望」のコントラストが、読んでいて気持ち良かった。「これが生きるってことだよな〜!!!」と思った。完全に余談だけど、自分が銀杏BOYZというバンドが好きな理由の一つもここにあるように思う。混沌の中に見える一筋の希望、その美しさに救い・生を感じるというか。そして強い生を感じられるという意味で大森靖子、Have a Nice Day!、MOROHA、imai(group_inou)などのバンド、DJも同様に。自分はこういう、強い生を感じられるものが好きだ。
普段は社会に合わせて自我を殺し、しかしときに爆発的に開放できる、そんな雪人に自分を重ねたのかもしれない。自分はアンダーグラウンドで生活するようなハードな状況ではないから、具体的な苦しさは雪人とは全く異なる。だけど自我の開放に生を感じる話という意味では、そこには十分自分が重なる。だからこそ自分はこの漫画に共感を覚えたのかもしれない。
爆発的な自我の開放のために音楽という手段は非常に有効だと思う。少なくとも自分にとっては。ライブとか、なんならカラオケでも良いんだけど、そういうときにふと自我を抑え込んでいる何かをぶち破ってそれを開放できる瞬間ってのがある。その瞬間ってのは最高に気持ちがいい。だから自分はライブに行くんだと思うし、歌を聴くんだと思う。大げさかもしれないけどそれは、生を感じるための行為なんだと思う。雪人にとってのラップがそうであるように。
社会に押しつぶされずに自分の人生を生きる勇気をもらえた。良かったな〜〜〜。頑張ろ
2023年の振り返り
振り返りしよ〜と思ってたら年が明けた。まあこういう年もある。
大晦日は紅白歌合戦をなんだかんだ言いながらずっと見てた。dボタン押したら5票持ってたくらい。全部白組に入れた。個人的ベストアクトは10-FEETだったから。白組大敗した。なぜ。
2023年
今年の一番の変化は転職。4月に転職した。リーガルテックの事業会社に行き着いた。8ヶ月やってみて、日本でリーガルテックをやることの面白さ・意義みたいなものは少しずつ強くなってきている。し、ITってのはやっぱ、特権化された知を開放して個をエンパワメントできるんだなと再確認した。そういうところが好きだなとも思った。その辺はやりがいを感じるし、今年はもっとそれをかたちにして社会に価値を生み出していきたい。日本のリーガルテック市場はまだまだ変化を起こせるし面白いなって思った。頑張りたい。
働く環境が大きく変わり、その中でいい意味でタフな仕事の機会も得られた。人付き合いが苦手なりにも、会社の部活にも入ってみたり飲み会にもそれなりに行って人間関係の構築を頑張ったりもした(頑張った。けどほんと苦手だなって思う)。そう振り返ってみると、エネルギーを消耗して然るべき状況だったなとも思う。なんとか無事に走り切った自分を褒めたい。
ペース配分は課題を感じた。自分の体力、というか気力は、自分が思っているより落ちてきているっぽい。ペース配分を考えずに動いていたら、気づいたら12月はバテバテだった。働き始めてから最も苦しい年末だったとすら思う。息切れした状態で、なんとか冬休みにこぎつけた感覚。まじ苦しかったな。12月は正直全然機能してなかった。
2024年
「無理をしない」を大事にしたいなと思う。謎に仕事体力はあると思ってたんだけど、上述したようにぼちぼちペース配分を考えないとガス欠になるんだなってのを学んだ。し、要所要所でペース配分の下手くそさを感じることがあった。
ちょっと話は飛んで、以前「結論」を出すことについて書いた。結論を出すとはつまり、「自分には出来ないことを『出来ない』と認めて、それを克服するための努力を辞める」ということ。
このときは「自分のもつ劣等感を受け止めて、出来ないことを『出来ない』と認める方がいいのか?」と迷っていた。克服するための努力を辞めること、「得意」だけに集中することに抵抗感を覚えていた。で、結局「迷っている以上無理やり結論なんか出せませんわ」と「結論」を先送りにした。
で、いま。「結論は出すべきではない」と考えるようになった。
もうちょい話は飛んで、自分はこれまで「一貫性がないこと」を恐れていた。また「自分の弱いところに向き合わないのは怠惰である」とも思っていた。マッチョだなと思う。一度頑張ると決めたことを休むとか、そういうのを恐れていた。自分の弱いところを克服し、「最強」に近づく努力を続けないといけないと思っていた。実際のところ、全然休んだりサボったりはしちゃうんだけど、そんな自分を許すのにめちゃくちゃ時間と体力を使っていた。
この恐れはある種の馬力を生み出すこともあるから、一概に悪いものではないと今でも思うけど、自身を苦しめる側面もある。自分の強みの一つとも感じているから、手放すことに抵抗もある。だけどぼちぼち、「しなやかさ」を持ってもいいのかもなと思う。頑張る余裕があるときは頑張ればいいし、余裕がないときは無理に頑張らなくていい。「スタンスの揺らぎ」を許容するのも大事なのかもな〜と思うようになった。無理やり出した「結論」は自身を縛るものにしかならず、それに縛られてペースを乱すと結局消耗してしまう。それだとしんどいってことを学んだ。だから「結論」はあえて出さないし、「無理をしないこと」「スタンスの揺らぎを許容すること」を大事に過ごしていきたいと思う。
それが結果的に、長い目で見たら人生の幸福度とか仕事のパフォーマンスとかの最大化に繋がれば良いなと思う。「人生は長距離走」みたいなのってよく言われているし「いやいや当たり前だろうが!!!」って思ってたけど、ここに来てなんか含蓄のある言葉だなぁって思った。理解するのに34年もかかっちゃった。
ということで無理やりまとめると、2023年は自分にとって「いよいよパワープレイが通用しないことを実感した年」だったのかもしれない。物量でカバーするっていう脳筋アプローチから、自身とか仕事の状態とこまめに対話しつつ、もう一段階器用に生活とか仕事を進めることを覚えていかないとなーと思う。で、持続可能な生活と仕事を送りたい。